関東風雲録 いざ!国府台

第3回 戦国時代の関東〜その3

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:河野なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

京都と鎌倉、足利家の対立

前回、蔵三さんの話を聞いてから、室町幕府とか南北朝のことをいろいろネットで調べたんですけど、何だか複雑すぎて頭が痛くなってきた。

まぁね。親子や兄弟、主従や仲間同士が組んだり離れたり裏切ったり裏切られたりして、延々と抗争を繰り広げる世界だからね。もともとは次期天皇のリリーフという暗黙の了解のもとで皇位についた後醍醐天皇が、それを不服として起こした反乱に、反鎌倉勢力が同調したから事が大きくなった。

それで、新田義貞とか足利尊氏の活躍で北条氏が滅んで後醍醐天皇が皇位を奪還するんだけど、この天皇の政治が凄く評判悪くて、結局、足利尊氏に追放されて、尊氏が室町幕府を作るっていうことでしょ。

キミにしては良く勉強したね。まぁ、中学校で学ぶ歴史レベルではあるけど。結局南北朝時代のキーマンというのは良くも悪くも尊氏なんだ。誰からも慕われる人柄で、義理や情に篤く、文武両道併せ持つ申し分ない人なんだけど、政治家に必要な資質、つまり謀略や非情さ、合理性という点には欠けている。まず第一に政治的野心に乏しいんだな。

確かに、最初から自分が「天下を取る」って言えば話が早かったのにねぇ。

最後まで政治は朝廷が行うべきという考えを変えられなかったようにも思えるね。だから武士の棟梁としては最高の人なんだけど、政治的なリーダーシップを執れるタイプではなかった。後醍醐天皇にせよ、高師直にせよ、弟の直義にせよ、主君や家臣、兄弟に権力を預けた結果、果てしない権力争いを生んで、生涯、その火消しに奔走することになる。

やっぱり「いい人」や「立派な人」じゃ政治家にはなれないっていうことなのかもね。

幼くして最初の鎌倉公方になった基氏も、父親似の立派な武将だったけど、まだ南朝方の抵抗が続いていたから鎌倉に落ち着くことができず、入間川で鎮圧に6年もの歳月を費やした。やっと鎌倉に戻って文化的な事業に取り組もうとした矢先、28歳の若さで他界。その子氏満も10歳にして自軍を率いたという勇猛な武将で、関東管領・上杉憲顕親子の助けを借りて関東一円の武力支配を確立していくんだけど、早くから中央政界進出の野心を持っていたから、京都の3代将軍義満との対立が深まる。

おじいちゃんの尊氏に比べて、お孫さんたちは権力欲が強いのねぇ。

うん。基氏にせよ氏満にせよ、凡庸な人物であれば京都との対立は生まれなかったかもしれないし、尊氏が京都に権力を集中させ、関東は上杉に任せていれば良かったのかもしれない。しかし、根っからの板東武者であった尊氏には関東への強い執着があった。そのこだわりが結局、権力の二重構造を生んでいくんだな。

それで、氏満と義満の対立はどうなったの?


康暦元年(1379)の政変に乗じて氏満が挙兵を図るんだけど、これは関東管領・上杉憲春が自刃して諫める。その後義満は南北朝を合一して盤石の政治体制を整えたから、氏満の中央政界への夢は絶たれた。

そうやって歴史の表舞台から消えていった人ってたくさんいるんでしょうね。

氏満はその後関東での勢力拡大に力を注ぐんだけど、その背景には自刃した上杉憲春の兄弟、憲方の存在があった。関東管領の職を継いだ憲方は、それまでの上杉家が鎌倉足利家の忠実な家臣的立場を守ってきたのに対して、一方で軍事的に氏満を補佐しながら、もう一方では京都の義満と関わりを深めていた。

ははぁ、その辺りから関係が複雑になってくるのね。


氏満が40歳で亡くなっても、義満との緊張関係は、子供の満兼に持ち越された。応永6年(1399)に有力守護大名の大内義弘が反義満の兵を挙げると、満兼はこれに呼応するんだな。ところが、これを阻んだのが上杉憲方の子で関東管領を継いでいた憲定だった。

っていうことは、鎌倉の足利家は2代にわたって関東管領の上杉家に中央進出を阻まれたってこと?

そういうことになるね。この応永の乱は義弘の敗死によって終結したから、結果的に上杉家は鎌倉の足利家を守り、お目付役である関東管領の職責を立派に果たしたということになるんだけど、足利家から見れば、中央進出を果たせなかったという禍根が残った事は否めない。で、その禍根は満兼が32歳で死ぬと、その子持氏に受け継がれる。

最初の基氏が28歳、その子が40歳、孫が32歳で亡くなったわけでしょ。みんな短命だったのね。

この時代では珍しいことじゃないよ。ただねぇ、そのせいでみんな幼くして跡継ぎになるから、当初はどうしても親族や関東管領の影響下に置かれてしまう。持氏も例外ではなかった。まず叔父の満隆が補佐役になるんだけど、応永17年(1410)に満隆謀反の風説が流れて持氏が上杉憲定の屋敷に逃げ込むという騒動が起きる。

叔父さんが甥に取って代わろうって話? 信じられない。


これは誤解だということで一時は収まったんだけど、それを期に今度は管領の上杉憲定に対して、満隆一派による反発が強まった。

とんだとばっちりじゃない? 持氏はただ憲定を頼っただけなんでしょ。

そこで事態を収拾するために、憲定は犬懸上杉家の氏憲に管領職を譲ることになった。氏憲は奥州から侵攻してきた若き伊達政宗を撃退したこともある猛者だ。

犬懸上杉家って、上杉家にもいろいろあるのね。


そう。ちなみに憲定は山内上杉家。宅間、犬懸、山内、扇谷と上杉にもいろいろあるんだ。まぁ、そんな細かい話をしているときりがないから省略するけど、持氏が幼い間は満隆と氏憲が政治の実権を握っていた。しかし、応永22年(1415)、持氏が元服して政務に就くと、持氏は満隆派の一掃を図る。まずは管領だ。もともと持氏は上杉憲定を慕っていたから、氏憲が疎ましかった。だから、氏憲よりも憲定の息子、憲基を重用するようになる。

なんか、人間関係がグチャグチャになってきたわね。


その後持氏は難癖をつけて氏憲の所領を没収、怒った氏憲が関東管領を辞職すると、持氏はお気に入りの憲基を後任に指名した。そうなると次は自分が危ないと悟った満隆は上杉氏憲と、持氏の異母弟で満隆の養子になっていた足利持仲と共に翌年挙兵する。このクーデターは一時は成功するんだけど、肝心の将軍・足利義持の支持を得られなかったから、幕命を受けた連合軍に敗れ、満隆も氏憲も自害することになる。

叔父さんと、弟と、元補佐役の連合軍と戦ったわけでしょ。持氏さん、若いのに大変よねぇ。

この時、まだ18歳だからね。持氏はこの抗争で一時駿河に追放されていたけど、すでに新たな野望を抱いていた。それは関東での親幕府勢力の一掃だ。クーデターから7年後の応永30年(1423)には、小栗満重、宇都宮持綱といった幕府直轄の扶持衆を滅ぼし、幕府に公然と反旗を翻した。怒った将軍・義持は討伐を決意するけど、一旦は持氏の謝罪で和解する。しかし、京都と鎌倉の対立は、もはや避けられないところまで来ていたんだ。
<続きは次回>

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