関東風雲録 いざ!国府台

第2回 戦国時代の関東〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:河野なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

戦国時代っていつのこと?

ところで、基本的な質問ですけど、戦国時代っていつ始まっていつ終わったの?

ホントに基本的な話だねぇ。でも、それって意外とはっきりしていないんだよ。ナントカ時代という呼び方のルールとしては、古代なら縄文とか弥生とか、文化や生活様式を指す呼び方。奈良以降から中世までは鎌倉、江戸みたいに政権の中心都市を指す呼び方。で、明治以降の近代は昭和、平成といった年号を指す呼び方になっているよね。

戦国時代って、そのどれにも属さないわよね。

そう。だから基本的には室町時代の一部という捉え方なんだ。皇室が二分化した南北朝時代も同じように室町に含まれる。つまり、戦国時代とか南北朝時代というのは政権の所在が混乱した状態を表す言い方なんだな。

じゃあ、戦国時代ってそもそも誰が言い始めたの?

当時の公家が群雄割拠の状態を中国の「春秋戦国時代」になぞらえて表現したらしい。でも、実際に戦国時代いう言い方が一般化したのは明治以降のことなんだ。戦国時代と言えば、かつては応仁の乱から始まって、信長による足利将軍家の追放までという説が最も一般的だったんだけど、近年では明応の政変から秀吉の小田原征伐まで、つまり安土桃山時代も含むという説も有力なんだ。

それって、どこがどう違うの?

つまり、足利氏による室町幕府の弱体化から消滅までという見方と、全国的な紛争の発生とその終結までという見方だね。まぁ、どちらにしても室町幕府の中央集権体制が崩れてから再編されるまでの100年前後ということだな。

じゃあ、関東地方の戦国時代はいつからいつまで?

終わりに関しては関東の覇者であった後北条氏の降伏、つまり秀吉の小田原征伐までということで間違いないけど、始まりはねぇ、関東の場合もっと早いんだよ。何しろ応仁の乱が始まる応仁元年(1467)より52年も前の応永22(1415)には、すでに関東を二分する権力争いが始まっていたんだ。

え〜っ、それなら戦国時代っていう呼び方もも50年さかのぼるべきじゃない?

だからさぁ、この時代は近畿中心なんだよ。例えば、室町時代に東北地方がどうなっていたかなんて誰も知らないだろ。実際、伊達政宗が現れなかったら、東北は戊辰戦争まで歴史の舞台に登場しなかったかもしれない。逆に江戸時代になってからの京都がどうなっていたかなんて、幕末になるまでよくわからないだろ。

そういえばそうねぇ。歴史の表舞台には出てこなくても、いろんな地域でいろんな事があったっていうことよね。

そう。だから教科書で学べる歴史なんて、ダイジェスト版のさらに短縮版みたいなものさ。今ワタシ達が知っている政治家だって、100年後名前が残ってるヤツが何人いるかねぇ。まぁ、それはさておき、関東の戦国時代が始まるきっかけは、鎌倉公方と関東管領の対立という、初っぱなから歴史オンチにはわかりにくい話なんだ。

当然、ワタシにも何のことやらさっぱり…。

鎌倉時代には鎌倉に幕府があった。これはわかるよね。但し、京都には依然として朝廷があったから、首都と呼ぶべき都市は二つあったわけだ。足利尊氏がこれを再び京都に戻して、室町時代が始まる。

鎌倉時代なら、ワタシでも知ってるわ。イイクニ作ろう鎌倉幕府だから、1192年に初めての武士政権が始まったのよね。

ところが鎌倉幕府の成立は、1192年じゃなくて、壇ノ浦で平家が滅んだ1185年というのが現在の常識なんだ。ついでに言えば、初の武家政権は平清盛によるもので、頼朝は2番目というのも歴史学者の間では常識。

え〜、知らない間にいろいろ変わっちゃったのね。歴史って怖いわ。

つまり鎌倉幕府という名前も概念も後世になって作られたものであって、実体としては東国の地方政権なんだ。なぜ頼朝が京都ではなくて鎌倉にこだわったのかと言えば、もともと頼朝には朝廷にとって代わる気も、全国制覇の野望もなかった。第一の目的は平氏の追討であって、その後は関東一円の武士団に領地を安堵することだった。そういう意味では清盛の方が遙かにスケールが大きい。

その点は大河ドラマ見てて納得したわ。

その後、鎌倉幕府が滅んで後醍醐天皇が朝廷の復権を果たすわけだけど、それを助けた足利尊氏は、当初、武家の棟梁として鎌倉幕府の体制を継承しようとした。しかし、天皇との対立が表面化すると、朝廷勢力を抑え込むためにどうしても上洛しなければならなかった。つまり、足利氏による幕府が京都に移っても、依然として板東武者の本拠地は関東であり、その重要性は変わらなかったんだ。

政治上、やむをえず京都にいるけど、心は関東にあるというわけね。

その後内紛もあって鎌倉に戻れなくなった尊氏は、自分の代理として次男を鎌倉に派遣した。これが鎌倉公方の始まりで、関東十か国の実質的な統治者になる。しかし、次男の基氏はまだ幼かったから、これを補佐する執事も一緒に派遣した。これが関東管領の始まりというわけ。

ははぁ。それで、だんだんと補佐役の方が力を持っていくっていう展開ね。少しわかってきたかも。

ご明察。鎌倉公方は代々世襲していくんだけど、将軍とは親族だから対抗意識も強い。逆に関東管領は京都の将軍が直接任命するから、将軍とのパイプはむしろ他人である管領の方が強い。しかも管領職はある時期から上杉家が独占して世襲するようになっていったから、その分影響力も強くなって、公方と管領の主権争いが徐々に表面化していくんだ。
<続きは次回>

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